2008年12月23日

「バカの壁」を超えたいと思えない

たまに、メンヘラやイタコに遭遇する。

俺が音楽やってると知ると、更に鬱陶しくなる。

下手すると喧嘩を向こうから吹っかけられてくる。

本人達は何にも分ってないので、喧嘩をすることや人を傷つけることが自己主張でありパフォーマンスであると信じきっているので、尚更たちが悪い。

自分のトラウマを癒すために表現活動をしている・・・その動機は買うにしろ、それを極限まで突き詰めて技術力を研磨して人前にでるのなら構わないが、そうでなくただ単純に”出たがり”なだけの場合の人間が多い。


要するに”努力しない困ったちゃん”なのだ。


そういう人間達としか、今まで出会った事が無かったが、それは俺にも非があったのだ。今は音楽家とは演奏が全てだと悟ることが出来たし、練習は欠かすことは無いし、自分のそれが生命線だと信じている。

そうでなく、俺もただそこに存在していれば良いと思っていた時期があったのだ。それが2004〜2005年までの二年間だ。

その時期に出会った人間達とはことごとく絶縁していったのだが、本来の映画音楽作曲時代のような「愚直に録音と練習を続ける」スタンスがやはり最も大事なのだと、それからは回帰していったわけである。



時々気にはなる。あの二年間くらいでであった”メンヘラ出たがり人間達”が更正したのかどうかは。



ま、大半は人前から姿を消す・結婚して普通の子になる・金の亡者となったいじわる人間に成り下がるといった碌でもない未来のようであるが、それも彼らが望んでそうなったことだ。






あの暴言絶叫女と、一度ゆっくり話をしてみたかった。






そして、願わくば努めて美しい女になってほしいとも思う。





全ては彼女次第なのだがね。





俺は静かに、電網空間の隙間から、君をときどき探している。





もう名前は捨てたら良い。新しい道を進むのには相応しくないだろう。




まぁそんなことを想っている。





二度と会うことは無いかもしれないけどね。
posted by KIGAS at 16:51| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

60人のブックマークしてるアホどもへ

自身の資質に見合った報酬としての対価が金銭によって支払われるというのは歩合制だが、そうではなく固定給で支払われるのがサラリーである。

音楽の才能」というものがあるか否かという指標は、今まで創られてきた「音楽」と呼ばれる芸術フレームに照らし合わせて判断される。

時として俺の作品は全く意味不明なものがある。例えば演奏時間1440分の「円周率の音階」がそうだ。12小節のフレーズを延々と繰り返すのだが、それはその12小節を演奏をしなくとも演奏になるというスキームすらある。

そして演奏する場所は舞台ではない。一日かけて演奏者はずうっと移動しつづける。とりあえず止まっていなければよい。そしてたまにフレーズを演奏すればよい。


どういうことかというと、これは4:33への回答でもあり、ミニマリズムやマニエリズムや複雑系への回答でもある。故に再生主義と呼ばれるものである。

演奏者は聴衆であり、聴衆もまた演奏者。時として自分に全く無関係な、だが意識しうる事象が全て音像となる。誰でもこれは演奏できそうで、実はそうではない。勿論CDに収めることは不可能なのである。



そういう「音楽」があっても良いと思う。再生主義は今後もっと掘り下げてゆくだろう。



さて、そうした、まったく私小説的な、自身の哲学やフレームに忠実に行った芸術は、音楽として認識されないのだが、これに対して金銭が支払われるとは全く思えない。100年後あたりにユダヤ人が勝手にクラシックとして持ち上げ、投機ビジネスをおっぱじめるかもしれないが、そんなことは俺は知ったことでない。



開拓者としての宿命を背負っているらしいと、占星術によればそうだが、試されない人生は生きるに値しないなどとソクラテスは言った。

そしてそれが貨幣経済なるものが始まる以前の格言だというのだから、古代人が一体何に対して自分達が生きる価値を見出していたのか、人間というものは一体何に対して価値を見出しているのか、おのずと答えが出てくると思う。



現代と言う時代は、お金と言う化け物によって世界が支配され、お金が集まる場所や人に価値があると人々は勘違いしている時代である。



お前らブックマークしてる60人の家畜どももそうだろ?



俺の言ってる事は全て真実であるから、コメントすら出来ないし、出来るわけがないよな。



読む振りをして読んでないのならもう二度と来るなよ、バカどもが。お前らのために書いてるわけじゃねぇんだよ。
posted by KIGAS at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

超難曲に挑むということ

高橋悠治がHERMAというクセナキスの超難曲ピアノピースに挑む動画がある(観たい人間はテメェで探せ)。

木山光が書いた「無実の投獄者」でも良いが、ただ単にノイズを撒き散らすだけのピアノ作品で、無意味に難しい作品は意味が無いといわれるが、ピアニストとしてはそうした弾きこなすのが難しい作品に挑むことは無意味ではない。自分の技術力の鍛錬になる。



ところで、資本主義というものが200年近く世界を支配してい久しいが、最近では生活必需品以外のものは無料で享受すべきだという考えが広まりつつある。YOUTUBEやMYSPACEがそうだ。

もともと文化・芸術と言ったものは何の腹の足しにもならないので、好きな人が好きと言う気持ちだけで独りで楽しめば良いというものではある。

我々が脳裏に思い描くセレブアーティスト…マドンナでもX JAPANでもブリトニースピアーズでも何でも良いが、彼らの才能はジョン・ケージやベリオやドビュッシーのそれに比べると、全く大した事がないということに最近気がついた。彼らは音楽を哲学や宗教や数学の領域まで掘り下げて作品を創造していないからである。

しかし、真っ先に思い描く「セレブアーティストの姿=成功者の姿」だと、例えばロックバンドを組む連中は思い込んでしまう。

そうではなく、本当に”強い音楽”というものが今こそもっと聴かれるべきではないかといつも俺は何万回も言っているのだが、これは人間の脳にある「バカの壁」が、そうした”本物や本質的なモノ”を拒絶してしまうのである。

芸術作品は、大概にして「観ていて疲れる」ものである。

それはHERMAも無実の投獄者もその例に漏れず、エイフェックスツインだとかローリングストーンズだとかを聴いている大多数の一般的なリスナー連中にとっては試聴が耐え難い苦痛でしかないだろう。



史実から観ても、凡人の脳に存在するバカの壁を越えて安直に聴き易い作品=ポピュラー音楽と言う名の民族音楽の歌曲だとかを、大音楽家と呼ばれている連中ですら、生きるために量産していた。もちろんこうした楽譜は”歴史の審美眼”に耐えられず消えていく宿命にあるのだが。




秋山雅史がいきなり紅白に出れたのには理由があって、創価学会の”フレンド”であった可能性が否定できないという。彼以上のオペラ歌手は幾らでもいるが、難病を乗り越えて歌手復帰と言ううたい文句がお茶の間的に受けが良かったと電通・創価学会が踏んだのであろう。

死人ビジネスと言う言葉があるくらいだ。



今年もあと10日あまりとなった。



俺は己に課した、芸術と言う名の過酷な試練を
克服するためにだけ、生きよう。



俺は俗物のために生きるべきではないのだ。
posted by KIGAS at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月20日

文化資本と社会階層

社会学では文化資本と言う言葉があるが、生まれ育った出自における家庭環境で享受される文化的な教養を主に指す言葉である。

昨今は在日台湾人・在日韓国人、そして在日朝鮮人など、半島系の在日の人間が多くなっている。そして在日が最も存在する芸能界では、言語が通じない・在日に充てられる仕事が無い・ホールスタッフなどのブルーカラーでしのいでいるような、貧乏な家庭環境に育った人間が非常に多い。

そうした貧相な家庭環境で育つと、ブラウン管に映し出される夢工場のなかで暮らして見たい、彼らのような生活をしてみたいと思うに違いないだろう。

毎日たとえば焼肉などの自営の飲食業で寝る暇も無く厨房で仕込み、毎日毎日同じものを創りつづけるような生活を、子供達はみているのだ。そして「こんな生活から抜け出したい、テレビに出たい」と思うようになる。

文化資本の低い人間達は、新興宗教やヤクザが陰で操っている、一見華々しいと思えるような世界に必ず憧憬を抱く。美空ひばりなど山口組の後ろ盾が無ければ国民的歌手になるのは殆ど不可能だったように。



貧しい者が、「何時かあいつらを見返してやる」というルサンチマンでもって、あるとき出会う悪い魔法使いによってシンデレラストーリーを駆け上ってゆく…俺はこれこそが資本主義の正体だと思う。


「人間嫌いのルール」という本があるらしいが、それによると”人間嫌いを貫き通したくば、自分が選んだ職場で優秀であることを示せ、そして人付き合いもある程度は嗜め、そうした上で自分が本当にやりたい哲学や芸術を追求しろ”というのが、人間嫌いを貫きとおす鉄則なんだそうだ。


俺は芸術というものは、商業とは実は最もかけ離れた存在だと思っている。ヘンリーダーガーの4万ページもの絵本や、石田徹也の絵がそうであるように、極私的なものなのだと思う。

それを金貸しや資本家が、あたかもそこに”夢”や”シンデレラ物語”があるかのように、現象をでっち上げるのだ。



現在このブログをブックマークしている5,60人の諸君らと全く話が通じないのは、この文化資本が違うからであり、社会の階層が違うからである。



どうせ貴様らはやることも無く、人生の哲学も信念も思想も無い、お金大好き人間で、暇つぶしで観に来ているアホどもなんだろうけど。
posted by KIGAS at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月16日

母親の呪縛

俺の母親は失敗を知らずに生きてきたエリートの人間だった。だからその子供が失敗をすることが信じられなかったので、エリート教育を徹底させた。

ガチガチの進学塾に通わせ、習い事をさせて、自分が期待する以上の人間に育て上げようとしていた。

俺は高校時代から母親のこうした過度の押し付け教育に猛烈に反発した。

部屋をボコボコになるまで壊し、窓を割り、時に母親を殴った。

自分は、自分の手と足で歩きたかった。

自分が、自分として生きられる場所を探した。

そして音楽と出会った。



今でも母親は、時として俺の人生を全否定する発言をする。そんなときはこういう。


「私の髪の毛は私のものだ。したがって私の人生も私のものだ。」



もう何万回言ったか分らない。



恐らく、俺が一番最初に出会った、最も遠い他者が母親であろう。



この人と、俺の父親が、この世界で生きるきっかけを創ったのは紛れも無い事実だが、その事を感謝するのと同じくらい憎んでいる。



これから”親”として生きてゆく同世代の人間達がいるに違いないのだが、きっと彼らもまた同じ過ちを繰り返す。「自分の親のような酷い家庭にしたくない」などと思っていても、それは宿命のように悲劇が訪れ、取り返しのつかない心の傷を子供達に負わせる。



人間は、二人いれば必ず争いあい、奪い合い、憎しみあう。そういう存在なのだ。



何人たりとも俺から音楽への愛を奪い去ることは出来ない。
posted by KIGAS at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

何もかも100万回言われたこと

今更言っても仕方がない。
言うべき事すらもうない。
だが世界は変わらない。
その事に常に絶望している。
人間に救いはない。
愛も憎しみも人間がでっち上げたものだ。
自然は考えることをしないのにきちんと生きている。
無言のテレビ画面に飛ぶ鳩の群れ。

自然の本当の価値も美しさも理解できない、この世界の99パーセントの人間。

中身が何も無い人間、やるべき事を見出せない人間は見限れ。
彼らは平気で嘘をつく人間だ。

自分こそ自分と言う名の唯一の教祖にして唯一絶対の信者であれ。
posted by KIGAS at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

無題 無題

四年前の昨日は、実は俺が音楽活動の進退に関わる一大事件が勃発した日だったのだが、特にそのことを今語る必要はないと思っている。

初の自主企画ライヴで大乱闘・チャリティギグにあるまじき失態、幾ら想定外だったとはいえ、主催をした自分にとっては二度と忘れられない心の傷をつくってしまった。

それと前後した4年間くらい、2002年から2005年までは俺にとっては地獄でしかなかった。

BAND形式で、複数の人間と共にポピュラー音楽の土壌で頂点を目指そうと思っていた夢が潰えたのが2003年の秋。

それから二年近く、いざ独りきりになり、これから一体どうすればいいのか途方にくれていた。

無論「そんなときに出会ったのが…」なんていう素晴らしい出会いなどあるはずもなく、芸術と犯罪の区別がつかない頭の悪い連中としばらくつるんでいた。

今は、あの当時つるんでいた連中とはほぼ全員縁を切っている。




結局最後にあてにしたのは自分だった。



全国でライヴをやるとか、海外進出を試みるとか、そうした「行動計画」の実行は、自分の演奏能力を一流のものとしなければやっても意味が無いことに気がついた。

つまり、ここ三年近くの日々は、自分の歌とヴァイオリンの演奏能力の向上のために日々を生きているのであり、またそれが自分にとっては全てだと今は思っている。

フランスでもオランダでも良いが、何処の町に行っても中国雑技団の技には誰もが感服する。超絶技巧の持ち主だったシューベルトベートーヴェンピアノ演奏、メシアンのオルガンの神業的インプロ、それらは世界中の誰であっても感動する。



”鍛えに鍛えて、自分のもともとあった才能を極限まで鍛錬し、それを披露する。

そこにまでたどり着くのには相当の努力をし、また努力だけでなくセンスも卓越している。美しい音楽だ。

これは認めざるを得ない。”



物凄いシンプルだが、要するにそういうことだ。


そして俺は多くの人が志す「ポピュラー音楽の頂点を極めたい」という欲からスキームを脱却し、芸術としての音楽を模索する。

その為に積極的に孤独になることに意味がある。



後ろを振り返ったところで最早誰もいやしない。

かつてスクラムを組んでいた仲間。

そんな仲間など、実はいなかったのだ。
posted by KIGAS at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月13日

悟ったことがある

中東戦争が終わると、人類は滅亡する。

終わらせてはいけない戦争というものがある。

救世主もまた、取り巻きが救われたいという願望によってそのように仕立て上げられる。仏陀の化身もまた然りだ。

ある種の超絶的な力や能力は簡単に手に入ることは出来ない。だから凡人は禍々しいヤクザと金貸しの力を借りて三段跳びの如く周囲の脚光を浴びようとする。

世界の大半がそのような凡庸な死相と観念に呪縛されている人間達で構成されているので、ヤクザと金貸しは決していなくなることはない。

故に、戦争もまた無くなることはない。

ユダヤ人たちの問題は人類の問題であるが、ユダヤ人もまた好き好んでユダヤ人になったわけではないし、自身もまたタルムード(選民思想)=生活保護の一つの決まりごとのように思っているのだろう。

それは創価学会もまた同じだ。新興宗教と言う名のお化け巨大カルテルなのだ。


俺の「世界の秘密」を探る旅も、一つの節目を迎えつつある。


つまり俺は都市の中空に浮遊するガラス張りの作曲小屋に引篭っているようなものだ。

そこで語る言葉や音は全て真実であろうとする。

だが真実はそれを確かにそうであると理解できる人間にしか見えない。



故に、真実を理解できない人間はただ仰ぎ見るだけだ。



世界が何によって動かされているか?



そんなこと生まれたときに既に皆、分っていたことだ。



今は寧ろそういう世界がどうあるべきかなどは俺にとって酒の肴みたいなものになってきており、専らヴァイオリンと歌の演奏能力の向上に集中している。


テレビでは幼少の頃からクラシック楽器にたしなんできた優等生の音楽大学生たちのドキュメントなんぞをやっている。


道なき道を突き進むKIGASにとって彼らもまた敵に過ぎない。


彼らでなくとも、ポピュラー音楽を創る人間達、現代音楽を創る人間達、それら全てに対峙して俺の芸術行為は行われるべきであろう。


何処にも属さず、故に孤高であり、孤独であり、他者との深い断絶がある。
posted by KIGAS at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

応援とか尊敬とかそんなもんいらん

実社会の方便として、これらの言葉を発する輩が大嫌いだ。下らない処世術の一環だし、そういうことを言い続けてると中身が何にも無くなる人間になる。

ただでさえ一つも良い所が無いのが人間と言う生物なのに、一つくらい取り柄を持つよう努力すべきだ。世界中の人間が認めるような、一つだけの取り柄を持つことは至難の業だ。そういう努力をしている人間に応援とか尊敬とか、そんな言葉はバカにしているだけの語彙だ。
posted by KIGAS at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天使のたまご

押井守監督作品の最大の傑作らしい。youtubeで拝見した。

天使のたまごの中身は何も無く、それをみすかしていた少年はたまごを割った。

少女は一体何者かといわれれば、人類の歴史と言う名の幻想の人格化だ。

少年は我々という、この映画の視聴者の人格化だ。

夢と現実が混ざり合って対話をしているのだと思う。これは人類の思い出だ。星新一が描いた「午後の恐竜」のようなものだろう。

たまごを割られた少女は人類の思い出と言う名の宇宙船に帰って石化する。初めからそんなものは存在していなかったのかもしれない。

そして少女が乗った宇宙船が降り立った世界もまた虚構だった。


まさに、「人類と言う名の現象」である。人類自体が虚無に属しているという事を体現している。


今見ている世界も既に幻影なのかもしれない。


人類の脳を超えた存在がいたとしたのなら、現実と言う名の世界は全く違うものなのかもしれない。


この手の形而上学的な映画は大好物なのであるが、商業的に全く成功していなかったらしく販売も中止されている。


俺が欲しいと思える作品はいつも市場に出回っていない。
posted by KIGAS at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。